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平成30年7月30日 神戸市立御影公会堂

神戸市立御影公会堂(こうべしりつみかげこうかいどう)は、兵庫県神戸市東灘区御影石町4丁目4番、石屋川の東側、国道2号の北側にある会館。集会施設として利用されるほか、施設内にある御影公会堂食堂は、建設当時から営業している老舗の洋食屋として知られる。

御影町時代、この建物は御影町公会堂として建設された。設計は、清水栄二が手がけた。
建設[編集]
白鶴酒造の嘉納治兵衛により、1929年2月26日に15万円、1932年5月1日に2万円、1933年4月1日に3万円の計20万円の寄付と、その利子2万9365円49銭、町費積立金及びその利子1万554円6銭、一般町費496円32銭の計24万414円87銭で以って建設費・設備費・雑費が賄われた。敷地は石屋字左美也百二十二番地の十二の945坪6合6尺の土地で、1932年6月15日に大林組の請負で着工し、翌年5月20日竣工。5月25日落成式。6月14日使用条例を定める。

戦災[編集]
 草の根たよりに堤防を這いずり上る。上ってみると御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近く見え、酒蔵も兵隊のいたバラックもさらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土手がすぐそこ、国道に電車三台つながって往生しとるし、上り坂のまま焼け跡は六甲山の麓まで続くようにみえ、その果ては煙にかすむ
 ??野坂昭如『火垂るの墓』、主人公清太が石屋川から見た6月3日の空襲後の焦土と化した御影の町
1945年(昭和20年)、3度にわたる神戸大空襲により御影の町は焦土と化し、公会堂も被災した。

1947年(昭和22年)に園舎を全焼していた御影幼稚園がここで再開される。合併当時の教諭だった内海薫は、公会堂の被災状況をこう語っている。「公会堂の外側だけがやっと残ってたという感じで、内部はがらんどうのようでした。部屋も1階の3部屋だけが残ってましたね」「大ホールの方も全部焼けてしまって、入り口のロビーの所だけが残っていましたね。」新園舎は1951年(昭和26年)3月18日の卒園式に間に合うように完成した。

終戦後、御影町には自力で修復するだけの財力がなく、御影町の神戸市との合併(1950年(昭和25年))後に市によって修繕・改修を受け、1953年(昭和28年)4月から使用を再開した。

戦後[編集]
大ホールは約一千人が収容でき、神戸市最大の集会施設であった。

1957年(昭和32年)11月から、結婚式場を設置し、低廉な経費で結婚式を行っている。最盛期には年間1100件の挙式があったが、各所に結婚式場が増えたため減少。それでも1975年(昭和50年)には約400組が挙式を行っていたが、1983年に閉鎖された。

また、1974年(昭和49年)夏からは冷房施設も整備された。

後に神戸国際会館、神戸市立中央体育館、神戸文化ホールなどのより大型の施設が建設され、利用者は減少した。

震災[編集]
建築後60年が経過して老朽化が進み、神戸市は公会堂を大改修して柔道の殿堂「嘉納記念館」とする計画を立案し、1995年元日付の神戸新聞に大きく掲載された。耐震性の問題から、正面玄関部分のみを残し、北側を壊して新しく建て替えるものであった。

しかし、その半月後に阪神大震災が発生した。周囲の建築物の多くが全半壊した中、皮肉にも公会堂はほとんど被害がなく、地震直後から約1年にわたり多くの被災者の避難場所として活用された。嘉納記念館構想はいつしか立ち消えとなった。

そして震災から21年経った2016年4月より、老朽化に対する修繕及びバリアフリー対応を目的として15億9700万円を投入して、建物外観の殆どをそのままにリニューアル工事が行われ、翌2017年4月10日にリニューアルオープンした。

2013年(平成25年)度のDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選出されている。

           https://mikage-kokaido.jp/

平成30年7月28日 個人面談会

兵庫県某所で、集団の面談会がありました。

求人に応募の方とゆっくり、丁寧に面談させていただきました。

33歳とまだ若く、楽しみな青年でした。他にもたくさんの応募者がいました。

たくさんの方とお会いできればと思っていましたが、時間の関係で思い通りにはいきませんでした。

今回の男性については、熟慮深考して判断したいと思います。

今後も積極的にこのような面談の機会を是非持ちたいと思います。

みなさん、どうもありがとうございました。

平成30年7月28日 熱中症を防いで夏を乗り切る!

まだまだ酷暑が続きます。何年ぶりとか そういうものではないようで、前代未聞のようです。

大変注意が必要です、猛烈な熱波が繰り返し襲ってきます。

みなさん 周りの方にも配慮して、注意して過ごしましょう。

特に高齢者は、要注意!

熱中症の症状を知り、早めのケアと熱中症を防ぐ生活習慣を心がけましょう!

平成30年7月26日 されどコピー、たかがコピー

びっくりの価格ですね。

コピー1枚 270円ですか、カルテのコピーです。

医療業界の闇雲な価格、以前から問題視されてきました。

例えば診断書・紹介状等 各項目の記入欄があらかじめ示されているにも関わらず、結構な値段ですよね。

今後ははっきりとした価格に国が決めるとか、常識を超えない範囲で開示するべきですよね。

平成30年7月25日 求人活動の秘訣

どこもかしこも頭が痛いですよね。

求人がうまく ばっちりという所はなかなかないのでは?

かくいう私共も悪戦苦闘しております。

ということで 本日は神戸国際会館にお邪魔して、研修を受けてきました。

様々な事例の検討・検証をしたうえで、今後の対策を検討しました。

あーという間に時間が過ぎて、有意義な研修でした。

特に求職者のみなさんに、会社のことを理解してもらう、仕事の楽しさを分かってもらう。

とても大切に思いました。

明日は、兵庫県某所に求職者面談に伺います。

どうぞよろしくお願いします。

平成30年7月25日 ラジオ体操

小学生の折に、近所の小学校にすぐ上の兄と夏休みに行きましたね。

でも兄が中学生になると 私ひとりです。近所の子供たちは行きませんでした。

なので私も行きたくないと、母にこぼすとえらい剣幕で怒られました。

でも今は、期間短縮して時間も遅めになって、周りに配慮しているのですね。

手書きの案内を掲示板でみて、昔のなつかしい光景を思い出しました。

「夏」といえば、私のなかではすべてがセピア色です。

ほろ苦い想いで話でした。

平成30年7月19日 河堀稲生神社

恒例のお祭りが7/18・19の二日間行われました。

近所の私が言うのもおかしいですが、本当にお行儀がよろしいです。

終わった20日金曜日早朝には、跡形もなくごみもなく びっくりぽんです。

開会中も大騒ぎもなく、楽しい二日間でした。

また来年もどうかよろしくおねがいします!

平成30年7月21日 イタリアン食堂

いつも会社へ行く道すがらにある イタリアン食堂です。

いくつかあるチェーン店のひとつでしょうか?

とてもインパクトある看板でしたので、とても気になっていました。

でも案外安いのでは?

今度家族で行ってみようと思います。

平成30年7月21日 朝一

近所のスーパーの朝市の準備中でした。

新鮮な野菜を見て、立ち止まりました。

青々とした野菜たちは、とてもみずみずしいです。

中でもとうもろこしは、大特価でした。

きっと子供たちも大喜びでしょう!

でも毎日大売出ししてくたらありがたいんですが~・・・・

平成30年7月20日 祇園祭の歴史

869年、都をはじめ国々に疫病が流行しました。
人々はこれを牛頭天王(ごずてんのう)の祟りとして恐れまました。
牛頭天王は釈迦が生まれたインドの祇園精舎の守護神とされています。
祟りを恐れた人々は当時の日本の国の数と同じ66本の鉾を立てて祭りを行いました。
そして神輿を神泉苑(二条城の側の寺院)に送ることによって疫病の祟りを払おうとしました。
これが祇園御霊会(ごりょうえ)の始まりです。
その後は疫病が流行した時だけ行われたようで、毎年行われるようになったのは970年からと伝わっています。
この時期は山鉾巡行はなく神事のみが行われていました。

山鉾巡行の成り立ち

将軍の世継ぎ争いに端を発した応仁の乱は数十年間京の都を焼き尽くしました。
極貧の農民は土一揆を起こすも足利将軍家を始め武士達はそれを鎮圧する力もないくらい荒れ果てた状態でした。
この頃、町の中心地に住む商人は田舎の貧農による土一揆で町内の家が焼かれる被害にあっていました。
農民の一揆に手を焼いた幕府の役人も自分達でどうすることも出来ないので町衆に農民を攻めさせます。

貧農を攻撃した町衆は弱いもの同士が殺し合う事に徐々に疑問を抱き武士に対する不信感を強めました。
町衆たちは税金を払わないことで武士に抵抗しました。
彼らは武士に対してより強い団結力を見せる必要がありました。
当時、応仁の乱で街は荒れ果て祇園会は32年間途絶えていました。
町衆は武士に団結力を示すために自らの手で祇園(会)祭の再興を決意したのです。

武士達は町衆による祭り再興を邪魔しようとしました。
再興直前に神事取りやめの命令を出したのです。
祇園会は869年から続いてきた神事です。
応仁の乱までの間、既に「祇園会」(ぎおんえ)は神事として約600年行われてきました。
しかし、応仁の乱が終わり32年ぶりに町衆は自分達の手による「祇園祭」を強行したのです。
神事取り止めと言われ祇園会が出来なくとも祇園祭をやろう。
これが八坂神社の神事(神幸祭や還幸祭)とは別に山鉾巡行(祭り)が町衆自らのものとして行われるようになった祇園祭の発祥です。

山鉾巡行を行う当日、武士や僧兵が巡行の邪魔をするために立ちはだかります。
町衆は巡行を阻止しようとする武士によって命を落とした人もいたでしょう。
でも彼らは自らの命と引き換えに祇園祭を永遠に続ける事を言い残したといいます。

応仁の乱で、荒廃した京都に32年間祇園会は途絶えていました。
再興するきっかけは鉾町の町衆の武士への反発の原動力、団結力でした。
戦で数十年もの間沢山の人の血が流れたため、町衆は武士に対して可能な限り平和的な抵抗がしたかったのです。
それが祇園祭再興への強い団結力となったのです。

このように応仁の乱後、西暦1500年にそれまで約600年続いていた祇園会が町衆の手によって祇園祭として復活しました。
鉾町の団結力がなかったら今日の祇園祭はなかったかも知れません。
祇園会として約600年、祇園祭として518年続いているのが今年の祇園祭です。

数年前は強風を伴う大きな台風の影響で中止の可能性もありました。
祇園祭は悪天候がもたらす洪水や干ばつによる疫病を防ぐ目的で始まったものです。
1467年の応仁の乱後、祇園会は32年間途絶えましたが、1500年から今年まで518年間祇園祭が中止、中断された時は数えるほどしかありません。
1582年の本能寺の変の年は11月に延期。
1865年は蛤御門の変の影響で前祭が中止。

明治以降は3回の時期に延期や中止を余儀なくされました。
1879年から1895年の間にコレラの流行が原因で4回延期や前倒しが行われたそうです。
第二次世界大戦前後は1943年から1946年の4年間中止。
戦後は1962年、阪急電鉄の工事にともなって一度だけ中止。
これらは全て止むを得ず行うことが出来なかった時です。

悪天候での前回の中止又は延期は1884年に大雨の影響で前祭の延期という記録があるのみです。
中止したことはありません。
こうして見ていくと、祇園祭がいかに鉾町の町衆に大切に受け継がれてきたかがよく分かります。

2年前、山鉾巡行当日の天気予報が前日の時点で大雨でした、
何人かの鉾町の方達に山鉾巡行が中止になってしまわないか尋ねました。
するとどの方も「雨天決行、大雨強行」と言われていました。
鉾町の方達はどんなに炎天下で暑くても、土砂降りの雨や雷雨でも天候の事など全く気にもしていない様子でした。
祇園祭を行うためには彼らは気象条件など気にならないのでしょう。

山鉾巡行は八坂神社の神様が四条寺町の御旅所に渡御するために街全体を清める意味が込められた露払い的な行事です。
だから前祭の巡行の後に神幸祭があり後祭の巡行の後に還幸祭があるのです。
神幸祭は神輿が八坂神社から御旅所に担がれる神事で、還幸祭は御旅所から八坂神社に戻る神事です。
巡行することで煩悩や厄などを山や鉾に溜め込み街を浄化するのです。
そのため山鉾巡行が終わると山や鉾は不浄なものを集めているので直ちに解体されます。

現在山鉾は先祭で23基、後祭で10基あります。
5年前に大船鉾が149年ぶりに復活しました。
8年後の2026年には200年ぶりに鷹山が山鉾巡行に復活することを目指しています。
(もう少し早まるとの噂もありますが。)
祇園祭は幾多の困難を乗り越えながら今でもこうして元の姿に戻るための努力をしています。
それ以外でもまだまだ本来の姿に戻るための取り組みがなされています。

祇園祭は今年で1149年目となります。
祇園祭の見物は梅雨時であり初夏でもあるのでとても過酷です。
ゲリラ豪雨や35度を超える猛暑との戦いです。
厳しい気象条件の中いつまでも元気に動き回れる体力を維持しこれからも末長く見守り続けたいと思います。

いかがでしたか?

これからもそのほんの一部でも皆さんにお伝え出来ればと思っています

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